体育会系と文科系を結ぶもの

体育会系と文科系は一般にお互い相容れない部分が多いと思われている。例えば、体育会系のマッチョな縦社会が嫌いで文科系になるものも多いのだろう。体育会系がもつ独特の根性論や精神論が好きになれない人も多いのだろう。

一方、文科系の場合、運動が嫌いだったり、スポーツはあくまで楽しむものだと言うスタンスにある。あるいは健康のためであったりもする。そもそも文科系は文学などにより高い嗜好性を示す傾向もあるのだろう。しかし、文学とは現実逃避の虚構の世界を礼賛することでしかない。メンヘラやセカイ系などと呼ばれる観念論者が多いのも、文科系独特の雰囲気をかもし出している。

体育会系と文科系の表面上の違いは大きいかもしれないが、実は精神論に基づいた態度表明という点でその内面は同根のものである。*1数学音痴という点も共通している。三島由紀夫浅田彰はゲイとしても有名だが、方やマッチョなゲイであり(右傾化=右ゲイ化)、方や文学趣味なゲイである(左傾化=左ゲイ化)。ゲイ(または精神論)はこのアンビバレンツな状態を内包した両義性に魅力がある。*2どちらも刈り上げがあまりにもよく似合う。



戦前戦後の精神論を受け継ぐものたち

かつて日本軍は精神論で戦争に立ち向かった。しかし、竹やりでB29に勝てる分けない。結局、神風は吹かなかったのだ。そして、戦後はその反動により、日本は憲法九条さえ唱えていれば絶対平和が訪れると信仰するようになった。*3感情論だけで国が守れないのは戦前の軍隊の精神論による暴走を見ればよくわかることだが、今度はその針が極端からまた極端へと傾いたまま思考停止に陥っている。日本人と言うものはどこまでも感情論に流されやすい民族のようだ。*4

理系と文系
理系と文系の間には、体育会系と文科系よりもさらに大きな溝がある。それは思考回路がまったく違うからだ。科学とは現実を冷酷に観測し法則を見出さなければならない。人体実験や動物実験を拒んでいたら、医学はいつまでたっても進歩しなかっただろう。ナチスの人体実験のデータがその後アメリカに渡り世界の医学に貢献したことは、小説「白い巨塔」にでも出てくるような割とありふれたエピソードだ。

冷徹な目で物事を観測する習慣は文系の人間には向いていない。日本には、人文科学と評される噴飯物の学問がある。世界基準では、人文は下等学問とされている。人文と科学の区別がつかない日本人は日本の土俵の中だけにいるから、そのおかしさがまったく分かっていない。*5


日本の社会科学の後進性
社会科学と呼ばれる分野にしてもかなり胡散臭いのも事実だ。科学は国際語として英語で論文を書かなければならない。*6しかし、日本の社会科学は国内の仲間内だけの評価に甘んじて国際的な土俵に上がろうともしない。社会科学の女王と呼ばれる経済学の分野にはいくつか優れた業績を残す人物もいる。

しかし世界レベルからみれば、日本の社会科学全体の評価は北朝鮮なみの最下層のレベルに甘んじているのが現状だろう。特に計量的アプローチに必須である統計学をまったく理解していない社会科学者が多いことは日本の国益を大きく損なう要因にもなっている。巷ではびこるニセ科学的言説にも社会科学における統計学の貧困またはインチキにより持たらされているものも少なからず見受けられる。*7

*1:科学を軽視するという点でも体育会系と文科系は同根である。スピリチュアルなどのニセ科学の発生源のひとつでもある。

*2:ベタとネタの関係にも近いのかもしれない。

*3:言霊で結果が変わると思うのなら、「水からの伝言」となんら変わらない。戦前戦後の日本を貫くニセ科学は過度の言霊信仰にも原因があるのかもしれない。

*4:小室直樹は「日本の敗因」という著書の中で、日本の敗因の原因を無能な秀才を中枢に置いた腐朽官僚制にあるとしている。今では数学者や物理学者から経済学へと転向するものは珍しくないが小室はその走りでもある。

*5:新しい歴史教科書をつくる会は「歴史は科学ではない」とし歴史家から反発を招いた。しかし、人文とは「人間の過去の文献をあれこれ扱うこと」であるから、(古文書や石碑を解読する)歴史学は紛れもない人文(Humanities)に分類される。日本の学問の分類に見られるいい加減さは、日本の後進性をよくあらわしてる。

*6:インパクト・ファクターに関わらずせめて英語で論文を投稿するところからしか日本の社会科学再生の道は残されていない。科学に国境はない。いま世界で通用する社会科学者がどれほどいようか。

*7:俗流若者論を垂れ流す社会学者を揶揄する「反社会学講座」などという本があるのも、日本の学問レベルの低さの証左である。