ルソーからハーバーマスへ

主観と客観。それらは、いわゆる哲学において大きなテーマの一つである。ルソーは一般意思というものを提案した。一般意思は客観意思ともいうべきものだ。では客観的な意思とは何だろうか。近代国家においては、法が擬制(フィクション)として一般意思の代わりを務めてきた。


プラトンが共産的な国家像を描いていたことはつとに有名なことだ。ルソーは直接民主主義的な国家を描いていたが、それは極めて全体主義的な国家像に類似していたものだった。キリスト教は認められず、国家に帰依しないものは死をもって罰せられる、そんな社会を描いた。


直接民主主義全体主義はコインの裏表に例えられる。デモクラシーの危険性は衆愚の暴走に尽きる。ヒトラー国民投票を用いて、あたかも一般意思の体現を演出した。ヒトラー国際連盟脱退を国民投票で問うたとき,ドイツ国民の圧倒的多数が支持し、オーストリア併合の是非を問う国民投票でも圧倒的な賛意を得ている。


ハーバーマスは討議制民主主義というものを掲げている。昨今のタウンミーティングを見ても分かるが、それがいかに机上の空論だということが分かるだろう。オルテガは「大衆」には「一般意思」など存在しないと言うことを指摘している。大衆は権利のみを要求し自らに義務などは課さないのだ。


トクヴィルはデモクラシーが多数者の専制(暴政)であることをいち早く見抜いていた。 ウィンストン・チャーチルが「デモクラシーは最悪の政体である」と語ったが、日本人でこの言葉の意味を理解している人は余りいないのかもしれない。もっとも「今まで試されたその他のあらゆる政治体制を除いては」と続きがあるのだが。