ルソーとmixi

ルソーの思想には、一般意思という難解な概念がある。一般意思はすべての人の意思を超越したところにある。神の視座を持ったものだけに許される仮想的なものだ。いわば神の意思、客観的意思とでも呼べるものかもしれない。


しかし、全体主義者はこの一般意思を我こそが体現したと思い込み、人民のためと称して粛清を行うことが度々ある。極端なエリート思想を持った人はとくにこの罠によく陥りやすい。例えば、一部の優秀な官僚だけが凡人である民衆を導くことができるなどと、吹聴したりするすることはよくある話だ。他にも、人類の医学の発展のためと称し人体実験を行うなど枚挙に暇がない。
  

ところで、mixiはコミュニュティ(コミュ)を誰でも作れるという大きな特徴がある。このコミュとは趣味のサークルのようなものだ。おかげで、昔は、薔薇族などの本の文通欄でしか知り合う機会がなかった人たちに、簡単に出会いの場を提供している。だから、もしmixiがなくなって一番困るのはこういうマイノリティの人たちかもしれない。


mixiのコミュは基本的に同じ趣味趣向の人が参加している場合が多い。このコミュは実に多彩で、色々なものが存在する(現時点で90万以上)。これら種々のコミュに参加することにより、何となくその人の趣味趣向が浮かんでくる。そうすると、自分と同じようなバラエティのコミュに参加している人を見かけると、何となく嬉しくなったり、シンパシーを感じたりする。


お互いに同じようなバックグラウンドを持っている場合、話も弾むし、ときに非常に強い結束感を生む事もあるだろう。特に、ある種の宗教は共同体としての結びつきを強く感じさせるのかもしれない。趣味も、ある意味、一種の信仰の形ではあると思う。


この数多のコミュを見るだけでも、一般意思などどこにも存在しないことが分かる。誰もが入りたくなるようなコミュを形成することは、コミュの管理者にとっては大事なことだろうが、万人受けするようなコミュは存在しないと言っても差し支えないと思う。今日もどこかで、管理人は一般意思を追い求め、コミュの運営に励んでいるのかもしれない。そして、体験して気づくであろう。一般意思など、どこにも存在しないと言うことを。