コピペ的シュミラクルな言葉遊びと言語ゲーム

ニヤニヤ密教とニタラ教のぼくちゃんとしての宮台工的コミットメント


http://www.asahi-net.or.jp/~ix7r-nnb/Horobi/Miyadai/diary-5.html
宮台真司その人のインタビューや、宮台嫌いの 大平健×大月隆寛の対談、宮台ファンを「頭の悪そうな子」と言い放つ山形浩生( GNOME ユーザガイドの翻訳でも有名)の文章など、宮台関係者(?)にはみどころいっぱいの、別冊宝島 445 『自殺したい人びと』 ですが、みなさんはいかがでしたか?

[1] 「世紀末相談批判── “終わらない日常”に風穴を開けよ」 諸富祥彦( 『〈宮台真司〉をぶっとばせ!』 , p24)
[2] ほつまさん による宮台ファンの二類型の一つ。宮台思想の中身を大事にしてまったり生きることを目指すが右派、宮台流の戦闘技術で保守系ウェブ論客の撃破を目指すのが左派 だそうです。この定義だと私は左派から転向して右派になった、という話になりますね。



http://newmoon1.bblog.jp/entry/319452/

>平気で虫を殺せる子がいるのと同じ意味で平気で人を殺せる子が出てくる蓋然性が上がるのは当然だと主張したかった。この僕の主張したかったことが妥当だったかどうかを議論するべき



http://www.asahi-net.or.jp/~ix7r-nnb/Horobi/Miyadai/diary-2.html

あと、ちょっと押えておきたいのは、最近家族幻想、学校幻想批判の仕事が多い宮台の、幻想一般を否定するのではなく、どんな幻想に頼るかを自分で選択できるようになるのが大切、という主張。宮台の言葉 (に限らず相対主義的な言説一般についても)をニヒリズムっぽいものとして享受している人には誤解して欲しくない部分だと思いました。



http://cyclolith.moe-nifty.com/misc/2005/11/post_cb08.html


http://homepage2.nifty.com/kamijo/magron/kyoikuja1.html
 1998年1月18日付け読売新聞の「メディア時評」に養老孟司氏が「記事やデータに考えるヒントを」として次のように書いていた。
 「『高いところから教えを垂れる』新聞が、長らく評判が悪いのはご承知の通りである。読者はばかではない。いまの世の中なら記者も読者も、似たような人たちだと思ってよいであろう。それなら重要なことは、読者に考える癖がつくような記事を書いてくれることである。見通しがつかないなら、その状況を示すようなデータを示してくれればいい。そこから先を考えるのは、読者の仕事である」。




私(宮台氏)の学問的な出発点は、チョムスキー言語学と、フォン・ノイマンゲーム理論がある。 つまり「数理科学」であって、数学的な手続きを理解できる人全員に開かれている。 そういう学問の重要性はよく分かっている。
「底辺を上げる」「万人に共有可能なものを広げる」ことによっては排除できない問題がある。 つまり、日本は知的な頂点が下がっている。 アメリカでは、「万人に共有可能なものを」と言いながら、頂点が下がらないシステムを維持している。 ところが日本は、東大生がバカばかりになっている事実など、知的な頂点のレベルがすごく下がっている。 官僚・財界・市民のエリートも、レベルが下がっている。



こういう状況では、ヨーロッパ的な発想も重要で、Wissenschaftlich な発想を擁護したい。 そうしたものの中にもう一度ルーマンを組み込んでいきたい。
ルーマンが自分の方向に自己言及を反復し始める1980年以降の作業が、知的なプラットフォームを万人に共有させることに貢献しているかと言えば、していない。 ルーマンにとっては発見的に機能するツールは、他の人にとっては発見的に機能するどころか、むしろネガティブに作用している。 実りある「発見 findings」はどんどん減ってきている。
「万人の底を上げていく」ということと、「頂点を上げていく」ということを同時に実行しなければならない。 ルーマンの営みは「頂点を維持する」というゲームの中に組み込まれ、その中で評価されてきている。
アメリカではルーマンの評価は非常に低いが、ドイツ人に言わせれば「アメリカ人には理解できない」。
ttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20061206





多様で時代とともに変化しつつある「社会学」。実際、政治学、法学、文学など、さまざまな方面に影響を与えたり(あるいは影響を受けたり)

ウェーバーからギデンズ、あるいは富永健一から宮台真司といった人たちの言説が現在どのように発展しつつあるのかについて自由闊達、縦横無尽に考察


スタンダード 反社会学講座
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/

MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/

arsvi.com
http://www.arsvi.com/

Socius_ソキウス
http://www.socius.jp/

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/

Anthony Giddens: Sociology 5th Edition
http://www.polity.co.uk/giddens5/



「最近の少年はキレやすい?」
「欧米は立派で、日本はダメ?」
「最近の若い者は・・・?」
統計によるトリック?とマスメディアによる情報操作?
社会学を懐疑的にみてみたらまた違った世界が見えてくる。


反社会学講座パオロ・マッツァリーノ著を参考に、
「一般常識ではホント」と思われている社会現象や問題について、別の角度から検証


社会学】とは、
社会学的手法や統計によって、
社会現象や社会問題の実態やメカニズムを解明するための学問である。

【反・社会学】とは、
社会学をちょっと違った角度からみてみようというものです。
「最近の少年はホントにキレやすいのか?」
「欧米は良くて、日本はダメなのか?」
「最近の若い者は・・・」
これらの論調は一見正しいようであるが
ホントに正しいのか?
常識、イデオロギー、主義、主張、
各種理論に左右されない、
目から鱗のホントのところを考えてみる学問


スタンダード 反社会学講座
http://mazzan.at.infoseek.co.jp/

社会学Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6


せっかくルソーの話題なのでこちらに書き込ませていただきます
ルソーの『社会契約論(民約論)』は彼の主張する社会契約説を説いた著書です
そもそも社会契約説それ自体は
社会も国家も人民相互の契約により成立したモノだ
とゆー政治学説であって
その具体的な内容は唱えてる人によって全く正反対だったりします
ルソーやロックは「人民主権論」を充ててますが
ホッブスは「絶対王政擁護論」を推してます

人民主権論」はその名のままにいわゆる民主主義ですが
時代背景を伴って理解しナイとルソーの真意は読み取れません
人民主権論」とは真っ向対立する「絶対王政」から
歴史的背景を以下簡単に述べます

16〜18世紀のヨーロッパ諸国は国王主権で
特権階級(貴族)と一般庶民(市民・農民)の身分制が徹底してました
官僚と常備軍によって維持されてきたこの政治形態は
中世から続いた封建国家の最終段階で
近代国家への移行は市民革命に依りました
その革命を齎した思想が啓蒙主義です
民衆の無知の上に国王と貴族だけがいい思いをしてる社会構造を覆そうと
民衆を目覚めさせるために絶対理性の立場から
権威や思想・制度やしきたり・慣習を合理主義的に批判しました
ルソーも啓蒙思想家としてこの一端を担い
『社会契約論』を1762年に刊行しましたが
その前に1755年に『人間不平等起源論』を著し
フランス社会の不平等を強く攻撃してます
これを受けてフランス社会の現状打破を指導してるのが
『社会契約論』ですから併せて読まれるコトをオススメします

ちなみにルソーの主張として
自由平等と自然回帰が2本柱ですが
人為と文明を諸悪の根源としてるのが特徴です
『エミール』は自然法を教育に導入するコトを推進してます

私の理解の範疇で説明いたしましたが
不備や補足などありましたらもちろんですが
ルソーの思想についての見解がありましたら
私自身も是非伺いたいと思いますのでよろしくお願いします


ジャン・ジャック・ルソー著『孤独な散歩者の夢想』より。
 ↓
見渡す田野一帯は、まだ緑色をして、微笑んでいるようではあるが、あちこち木の葉の落ちたところもあり、さすがに物さびて、冬近い寂寞の感を至るところに呈している。そのためか、この眺めには、何かしら、甘く哀しい気分が入り交じっていて、それがまた、僕の年齢と運命にあまりにも似ているため、僕は自分の身に当てはめて見ずに入られなかった。僕は無惨にして不運な生涯の果てに立っている自分を見る。魂はまだ根強い感情で満ち、精神はまだ数輪の花で飾られてはいるが、すでに悲哀のために色褪せ、憂苦のため萎れている。ひとりぼっちで、見捨てられ、僕は初霜の寒さのそぞろ身に滲むを覚える。そして、僕の枯れたイマジネーションは、僕の心どおりに形成された存在で、僕の寂寥を満たそうともしない。


http://www.geocities.jp/hgonzaemon/rousseau.html#9-8



例えば、コントのPhilosophie Positive(実証哲学)、すなわち positivisme(実証主義) は、全く実証的ではなく、17世紀自然哲学者(例、Newton)たちがもたらしたと彼が理解したところの自然科学の手法、つまり、法則論的対象理解を、機械的に社会にも適用しただけにすぎない。また、彼の〈三段階の法則 loi destrois etats〉も、実証主義信仰と同様に、その師サン・シモン(Claude Henri de Rouvroy Saint-Simon)に原型があり、〈人類教〉の教祖というヤバイところも、同じくサン・シモン譲りだ。

 コントの positivisme(実証主義)は、positif(実証的)と何の関係もなく、「俺は、エコールポリテクニク出身で科学の何たるかを最も知っている哲学者だ。この俺なら“社会”の科学を建設できる。」という自己陶酔のイデオロギーに過ぎない。そしてこの流れは、そっくりそのまま、マルクス(Karl Marx)の、 wissenschaftlich = scientific(科学的)という自己規定へと流れ込む。このテーマは話が長くなるので、気が向いたら、 positivisme(実証主義)v.s. positif(実証的)の問題、社会秩序の動揺と哲学的リゴリズムの隆盛の問題、として相互に絡めて再論することにしたい。
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/01/auguste_unco_5e83.html


 4)環境社会学

 環境社会学は、1980年代にアメリカで始まった。日本では、公害反対運動と労働衛生の確立が背景にある。
1960年代〜70年代:高度成長に伴う「公害」問題の激化 ⇒ 企業の社会的責任と行政の義務
1980年代〜:「地球環境問題」という意識
 環境経済学よりも後発 ⇒ より実践的、運動的。
  環境問題は、「社会問題」である。 ⇒ 環境保護運動にも目を向けるべき。
例:グリーンピース(Greenpeace)=国際的組織の環境保護運動の民間団体。1971年に発足。24の国に支部をもつ。日本支部(グリーンピース・ジャパン)は89年に設立。グリーンピース・インターナショナル(本部はアムステルダム)は国連NGOに登録。フランスの核実験に抗議して太平洋に抗議船を出すが、フランス政府によって撃沈。船の名前は「虹の天使」。
 緑の党(Die Grüneドイツ):2004年現在、シュレーダー首相のSPDと連立を組んでいる。「基底民主主義」などの徹底した直接民主制を内部では採用。原発反対、核実験反対を唱える。「オルターナティヴ運動」の先端。

 「運動」への批判:N・ルーマン=「不安」は「原理」にはならない。社会システムと「環境」は、直接影響し合わない。むしろ「共鳴」の関係にある。生活を元に戻すことはできない。
 「オルターナティヴ運動」は、何も「オルターナティヴ(代替案)」を出せない。むしろ「出せない」ことで影響力を得ている。現状に対する「不安」を再生産することで影響力を得ている。
ルーマンエコロジー的コミュニケーション』)
http://www7.ocn.ne.jp/~ooguro/socialthoughts.html



# たぬき 『はじめまして。同性間格差の問題については、偽フェミニズムや女性間格差を助長することを許すジェンダー研究で有名なお茶の水女大だけではなく、それ以上に、お茶の水大関係の女性を蔑視する東大出身の女性や女子学生の間で著しいです。当然男性に対する差別も当然とされています。その本拠地が東大出身女性による東大女性のためだけの「さつき会」です。「さつき会」で検索すれば、すぐホームページが出てきます。ホームページには目立ったことは書いてありませんが、ホームページには示していない内部規則に、東大出身女性だけが、東大出身女性を「東大の学生であることを主張して他大学出身者と差別化する」ことを目的にしています。女性のこうした行動は、女性だけではなく、男性にとっても非常にゆゆしき事態です。』
ttp://d.hatena.ne.jp/youlala/20060422


今日はもう一つ。

何故小谷野敦は孤立するのかについて考えてみたい。

荻上チキは自身のブログで、「文学研究においてはとても

参考になる議論を展開している方なので、文学研究出身の

私にとっては尊敬すべき研究者というイメージがとても強い。」

と小谷野を評するが、それは小谷野の「頭がよい」からなのか?

そうではないだろう。

例えば「バックラッシュ!」の中の鈴木謙介による以下の文章を見てみよう。

  むしろできる限り異なる意見の人と主張を闘わせることなく、同じような意見の人びととの

 繋がりを確認するために、政治的立場が「ネタ」としてもちいられているのである。(0122p)
ttp://d.hatena.ne.jp/aftercare/20060709



macska
『うーん、しかし『ブレンダと呼ばれた少年』の件は、ジェンダー系の学問では必ず持ち出される話題ですし、ちっとも黙認されていませんよ。小倉さんだって『ブレンダ』出版後の書籍では5ページを割いて書いていますし。『ブレンダ』出版以前に発行された書籍の文庫本を修正しないのは、単に昔の書物なので(初版は80年代です)気付いていないか、あるいは改訂するのを面倒がっているかだと思います。それを批判するのは良いのですが、まるで彼女が黙認しているとか、新事実から逃げ回っているように言うのは不当です。
 それから、社会構築主義 (social constructionism) と社会学習論 (social learning theory) は全然違いますよ。生物学的決定論と社会構築主義は違ったレイヤーを問題としており、原理的に必ずしも対立しません。生物学的決定論に対立するのは構築主義ではなく社会学習論です。そしてその社会学習論にしても、『ブレンダ』の症例で必ずしも全面的に否定されてはいません。その辺りは、他の科学研究の内容も含めて『バックラッシュ!』内のわたしの論文で詳しくまとめています。(ブログの方にも少し書いています。)』
ttp://d.hatena.ne.jp/aftercare/20060709